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報徳仕法の啓発

問い合わせ番号:10010-0000-1904 登録日:2023年10月24日

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本市では、平成25年に開催した、「第19回全国報徳サミット秦野市大会」を契機に、二宮尊徳の教えである「報徳仕法」を学び、現代にも通じるその精神を、これからのまちづくりや人づくりに生かすため、報徳仕法を広める取り組みを進めています。

二宮尊徳の教え「報徳」とは

受けた徳や恩義に報いることを「報徳」といいます。この「報徳思想」を実践するのが「報徳仕法」です。二宮尊徳は報徳思想を広め、実践することにより、ききんや災害などで困っていた多くの藩や郡村を復興しました。

 報徳思想とは「至誠(しせい)」を基本とし、「勤労(きんろう)」「分度(ぶんど)」「推譲(すいじょう)」を行うという考え方です。

  • 至誠  まごころを尽くすこと
  • 勤労  物事をよく観察・認識し、社会の役立つ成果を考えながら働くこと
  • 分度  自分の生活や立場、状況に合った生活をすること
  • 推譲  勤労・分度により、生じた余剰・余力の一部を子孫や社会のために譲ること

二宮尊徳にゆかりのある秦野出身の功労者

安居院 庄七(アグイ ショウシチ 、1789年-1863年)

安居院庄七イラスト

安居院 庄七は、二宮尊徳の報徳仕法を広めた功労者で、寛政元年(1789年)に相模国蓑毛村(現秦野市蓑毛)で生まれました。庄七は、米穀商を営んでいましたが、多額の借金を作ってしまったため、二宮尊徳に借金を申し込みに  下野国桜町領(現栃木県真岡市)に向かい、報徳思想を知りました。桜町から 秦野に戻った庄七は、尊徳の教えを実践し、家業と村の建て直しに成功しました。

その後、庄七が関西から遠州(現静岡県西部)で布教活動をしたことにより、現在の浜松・掛川方面では、多くの結社が組織されました。明治44年(1911年)には、掛川市に大日本報徳社本社が設置されることになります。今でも庄七は「遠州報徳の祖」として頌徳碑が建立されるなど、彼の遺志が受け継がれています。大正9年、従五位に叙せられた記念として、秦野市立本町小学校に記念碑が建立されています。

草山 貞胤(クサヤマ サダタネ 、1823年-1905年)

草山貞胤イラスト

草山貞胤は、文政6年(1823)に相模国平沢村(現秦野市平沢)で生まれました。草山家は代々、神職を勤めていました。貞胤は若い時から多趣多能で、特に煙草栽培に興味を持ち、苗の植え方、苗床の研究で成果を上げ、数々の賞を受賞し、秦野煙草の名声を高めました。
貞胤は36歳の時に神職となり、小田原の報徳二宮神社の創建に際しては、自分の財産を処分し、資金を充てるなどして尽力されました。貞胤が71歳のときには、報徳二宮神社の初代社掌に就任しました。

昭和55年には、報徳を広めた功労者として、二宮尊徳、福住正兄、安居院庄七らとともに「かながわの100人」に選ばれています。

このページに関する問い合わせ先

所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 生涯学習担当
電話番号:0463-84-2792

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