シリーズ連載 二宮尊徳と報徳仕法
問い合わせ番号:10010-0000-1912 登録日:2023年10月24日
二宮尊徳にゆかりのある市町村が集まり、二宮尊徳の教えである報徳仕法を通して、まちづくり・ひとづくりに必要な取り組みを学ぶ「全国報徳サミット」。平成25年10月19日(土曜日)に開催された秦野市大会に向けて、二宮尊徳と報徳仕法について、広報はだのでシリーズ連載したものを紹介します。
第1回 二宮尊徳ってどんな人
二宮尊徳(幼名・二宮金次郎)は、天明7年(1787年)、相模国栢山村(現小田原市栢山)で生まれました。両親を早くに亡くすなど、幼い頃は苦労の連続でしたが、農業に励み、荒れ地を復興するなどして、24歳で二宮家の再興を果たしました。37歳のときには、小田原藩主の大久保忠真(たださね)より下野国(しもつけのくに)桜町領(現栃木県真岡市)の復興を依頼され、見事成功しました。その功績により尊徳は、幕府直属の役人となり、全国610カ所の藩や郡村の財政再建を成し遂げるなど、江戸時代後期を代表する農政家として活躍しました。
第2回 二宮尊徳の教え
二宮尊徳の教えである「報徳仕法」は、次の4つのキーワードで説明されます。
- 至誠=まごころを尽くすこと
- 勤労=社会に役立つ成果を考えながら働くこと
- 分度=自分の状況に見合った暮らしをすること
- 推譲=勤労・分度で生まれた余裕を子孫や社会に譲ること
尊徳は、これらの分かりやすいキーワードを使って、質素倹約を基本とする「報徳仕法」を広め、財政難に陥った全国の村々を立て直しました。
第3回 少年時代のエピソード
寛政3年(1791年)、尊徳が5歳のとき、酒匂川(小田原市)の氾濫で堤防が崩れ、二宮家の田畑が流されてしまいました。
父親が病気のため、代わりに堤防の補修作業の手伝いに出た幼い尊徳は、十分な働きが出来ない分、夜なべしてわらじを作り、作業する人たちに配りました。
また、13歳のとき、働いて貯めた200文で松の苗200本を買い、堤防を補強するために植えました。堤防上に続く松並木は、今では酒匂川を象徴する風景の1つとなっています。
第4回 体験から学んだ「積小為大」
父母を亡くし、伯父の家に預けられていた尊徳。一日の仕事を終えた後、夜遅くまで書物を読むため、あんどんの油を手に入れたいと思いました。そこで、村人から分けてもらった一握りの菜種を土手にまき、翌年の春に採れた約10キロの菜種を油と交換してもらい、勉学に励みました。また、捨てられていた苗を荒地に植えて育てた1俵の籾(もみ)から、翌年には5俵の米を収穫しました。
尊徳は、こうした体験を基に、「小さな努力の積み重ねが大きな成果を生む」という教えを広く説きました。この教えが「積小為大」という言葉になり、今でも多くの人に語り継がれています。
第5回 報徳仕法を広めた安居院庄七
秦野市出身で、二宮尊徳の教えである報徳仕法を広めた安居院庄七。尊徳の誕生から2年後の寛政元年(1789年)、蓑毛に生まれ、十日市場(現在の本町四ツ角付近)の米屋、安居院家に婿に入りました。商売で多額の借金を作ってしまった庄七は、お金を借りに下野国(しもつけのくに)桜町領(現在の栃木県真岡市)にいる尊徳のもとを訪れます。そこで尊徳の教えに感銘を受け、自分の愚かさを恥じたといいます。秦野に帰った庄七は、尊徳の教えを実践して家業を立て直したほか、貧困に苦しんでいた横曽根村(現在の小蓑毛)の復興を指導します。その後、活躍の場を遠州(現在の静岡県西部)に移し、貧困にあえぐ約60の村を報徳仕法により復興し、「遠州報徳の祖」と呼ばれるまでになりました。
第6回 報徳二宮神社を創建した草山貞胤
草山貞胤(さだたね)は二宮尊徳の誕生から36年後の文政6年(1823年)、平沢に生まれました。
たばこの栽培方法や品質向上などを研究し、秦野たばこの名声を高めただけではなく、日本のたばこ栽培技術の革新に貢献しました。
36歳のときに父の跡を継ぎ、19の神社の神主を兼務した貞胤は、50歳を過ぎてから尊徳の弟子に報徳仕法を学び、感銘を受けます。自分の財産を売り払って報徳二宮神社(小田原市)の創建に尽力し、71歳で初代の神主になりました。
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