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はだの浮世絵コレクション【2024年1月~】

問い合わせ番号:17028-5751-2577 更新日:2024年12月1日

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  「はだの浮世絵ギャラリー」では、秦野市が寄贈を受けた浮世絵1,904点を順次、展示しています。

 より多くの皆様に、この浮世絵という貴重な文化芸術資源を知っていただくため、「はだの浮世絵コレクション」と題して、浮世絵作品紹介をしています。

「名所江戸百景 日本橋江戸ばし」歌川広重

名所江戸百景 日本橋江戸ばし

解説

 生涯にわたり風景画に取り組み、第一人者となった歌川広重が最晩年に描いた「名所江戸百景」は、安政3年 (1856年) 年、広重数え60歳から62歳で亡くなった後の安政5年(1858年 )の約3年に渡り、118枚が刊行されました。

 大きさは大判(約36.7cm×25.5cm)の竪絵で、現代の絵葉書のように、地方からやってきた人々が江戸の賑わいや美しい風景を伝えるため、手軽な土産として購入し大変な人気となりました。 

 当初、シリーズものとして「百景」としていましたが、二代広重の1図と、梅素亭玄魚の目録を加えて、120枚のセット販売されたほどです。目録は、「春の景、夏の景、秋の景、冬の景」に分けられ、「一立斎広重一世一代 江戸百景」と銘打ち、広重の名所絵の集大成として販売されました。

 この作品は、日本橋の欄干と大きな擬宝珠、右下には天秤棒と盤台に乗った鰹が大きくクローズアップされ、藍色の一文字ぼかしの空の下、初夏の季節を感じられる作品です。              

※広報はだの令和6年12月1日号掲載

「江戸名所四十八景 第二夕景 一石はし夕景」二代歌川広重

江戸名所四十八景 第二 一石はし夕景

解説

 「江戸名所四十八景」は、二代歌川広重によって万延元年(1860年)~文久元年(1861年)にかけて手掛けられました。この作品は、大判(縦39.0cm×横26.5cm)の約半分の中判(縦・約19.5cm×横・約26.5cm)といわれるサイズですが、江戸の名所全48図には、小さいながらも必ず人物が描かれ、江戸情緒やにぎわいなどが感じられます。

 日本橋は、江戸の中心地であり、諸国へと延びる街道の出発点でした。その近くにある一石橋の橋上からの眺望は、ここから一石橋を含め八つの橋が見渡せることから、「八ツ見のはし」として江戸の名所の一つといわれていて、師匠である歌川広重も「名所江戸百景 八ツ見のはし」を描きました。

 奥には富士山と江戸城が見え、物資の運送や漁をする船が行き交う様子からも江戸の人々の暮らしに思いをはせることができます。

「双筆五十三次 加奈川 従金川台芒横浜本牧眺望」三代歌川豊国・歌川広重

双筆五十三次 加奈川 従金川台芒横浜本牧眺望

解説

 「双筆」とは、二人の合作という意味で、「双筆五十三次」は、役者絵の三代歌川豊国と、風景画の歌川広重がそれぞれの得意なジャンルを担当した夢の競演を果たし、大人気となりました。

 加奈川(神奈川)は、日本橋から出発して品川、川崎の次の宿場です。背景には広重の保永堂版「東海道五十三次之内 加奈川 台之景」に描かれた美しい海岸線と帆掛船が浮かんでいる作品を思い浮かばせるような風景が広がっています。

 その前の槍を持った男が女性の髷を付けているおかしな姿は、三代豊国が手掛けています。これは「お札まき祭」の様子を描いたもので、まかれた札を家の戸口や神棚に貼ると厄除けになるとされ、現代でも横浜市戸塚区の八坂神社に伝承されている祭です

「二代目関三十郎の寺岡平右衛門」歌川国貞(後の三代豊国)

二代目関三十郎の寺岡平右衛門

解説

 三代歌川豊国は、幕末期最高の人気絵師であり、初代歌川豊国の様式を受け継ぎながら、力動感に富んだ独自の作風を作り上げ、質量ともに役者絵の第一人者でした。美人画においても、猪首で猫背の姿勢が特徴の粋な女性を多く描きました。

 特に、最晩年まで作画した役者絵は、師である豊国の画風を継承しながら、斬新な様式美を作り出しました。

 画面は、二代目関三十郎の寺岡平右衛門です。平右衛門は、『仮名手本忠臣蔵』の登場人物で、妹は早野勘平と恋仲のお軽です。妹を成敗してまでも、お供を願い出ようとした平右衛門に、大星由良助は本心を明かし、敵討ちに加わることを許します。

 この作品には、五渡亭國貞画と落款されていて、三代豊国が国貞と名乗っていた頃のもので、晩年の大首絵とは違い全身を描いています。

「(提灯を持つ女)」菊川英山

(提灯を持つ女)

解説

 菊川英山は、喜多川歌麿の画風を受け継ぎ、浮世絵美人画の「中興の祖」と称されました。黒目がちで、まつ毛の濃い人形のような瞳のすっきりとした顔立ちの美人画は人気となりました。

 この作品は、「掛物絵(かけものえ)」と呼ばれる大判を縦に二枚続きにした形態のもので、安価な値段で高価な肉筆画のように掛軸にして飾ることができ、庶民にとっても手軽に楽しむことができました。

 頭を傾げ、足元を照らす提灯や、着物の袖口と前掛けをつまむしぐさの全身を画面に描いています。地味な色合いの着物ですが、青い襟がかかった赤い襦袢や裾から見える弁柄色の裏地など、粋でおしゃれな着こなしが見られます。

「七伊呂波拾遺 七 七夕 杉酒の段」三代歌川豊国

七伊呂波拾遺 七 七夕 杉酒の段

解説

 七月七日の七夕祭りは、中国の牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の伝説が伝えられ、江戸時代には五節句の一つに定められたことで、庶民の楽しみとなり現代にも伝承されています。

 この作品は歌舞伎『妹背山婦女庭訓』の杉酒の段の場面です。左手に笹竹を持っているのが杉酒屋の娘お三輪。画面右は、烏帽子折(えぼしおり)の求女(もとめ)です。

 七夕では願い事を短冊に書いたり、吹き流しなどを結びつけるだけでなく、五色の糸に針を通して供え、裁縫や機織りの上達などを祈りました。

 台の上に供えられているのは、白い糸と赤い糸を苧環(おだまき)に巻いたものです。お三輪は白い糸の苧環を持ち、求女には赤い糸の苧環を渡し変わらぬ気持ちを託しました。

「江戸名所百人美女 人形町」三代歌川豊国

江戸名所百人美女 人形町

解説

 「江戸名所百人美女」は、江戸後期の浮世絵界をけん引した三代歌川豊国が70歳頃に手掛けた集大成で、年齢や既婚・未婚、職業、身分などにより様々な美女を描き分けました。

 画面左上部に添えられているコマ絵は、美しい容姿にあやかってか、当時人気の女方・瀬川菊之丞の定紋・結綿(ゆいわた)や菊の花模様などが白く抜かれた紺地の暖簾がかかっている「人形町」にある化粧品店です。

 江戸時代には、白い肌、口紅の赤、眉やお歯黒の黒の三色が化粧の基本で、色白の肌が江戸美人の第一条件とされていました。

 じっくりと、「寿々女香(すずめこう)」と書かれた白粉(おしろい)の袋を眺めている若い美女の姿は、化粧やファッションを楽しむ現代の女性と変わらないように見えます。

「千葉 小錦八十吉」玉波

千葉 小錦八十吉

解説

 相撲の取り組みや力士を描いた相撲絵は、役者絵と同じようにスターのブロマイドのような存在であり、多くの絵師が手掛けました。

 元々は神事であった相撲ですが、江戸時代には庶民にも親しまれる娯楽となりました。寺社の造営・修復費用を捻出するための勧進相撲は、多くの群衆が押し寄せ大盛況でした。現代と同じように幟(のぼり)が立ち、土俵もつくられ、開催場所には二階席、三階席もある大がかりな仮設小屋が建てられました。

 この作品の絵師は、明治の相撲絵で活躍した玉波です。力士は千葉出身の初代小錦八十吉で、小さい体ではるかに大きな相手を素早く倒し、横綱として活躍した小錦の浮世絵は数多く出版され大人気だったそうです。

※広報はだの令和6年5月1日号に掲載。

「(纏持)勇の寿」月岡芳年

解説

 「勇の寿」は、町火消に扮した役者を描いた七枚の揃物で、火事が頻繁に発生した江戸では、火の粉がかかっても逃げずに纏(まとい)を振り続ける纏持(まといもち)は、ヒーローでした。町火消には持ち場があり、それぞれ組によって違う半纏(はんてん)を身に着け目印としていましたが、その持ち場をめぐって争いがおこることもありました。

ここに描かれているのは、明治の歌舞伎界で九代目市川団十郎と共に「団・菊」と並び称された四代目市村家橘、のちの五代目尾上菊五郎です。真っ赤な背景に大きな纏のデザインは、纏持の姿をより一層ひきたてています。

ひょいと手拭い(てぬぐい)をかけて、杯(さかずき)を持つ粋なしぐさを江戸っ子も真似したのではないでしょうか。

 

「春夜の御遊」三代歌川豊国

解説

 『源氏物語』は平安時代に紫式部が執筆したものですが、この作品は「源氏絵」と呼ばれるもので、元になっているのは江戸時代後期の草双紙(絵入りの小説本)『紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』で、『源氏物語』を柳亭種彦(りゅうていたねひこ)が翻案したものです。

『偐紫田舎源氏』は、歌川国貞(後の三代歌川豊国)が挿絵をつけ、文政12年(1829年)から38編が刊行される大ベストセラーとなりました。主人公は「光源氏」ではなく、足利義正の息子「足利光氏」という設定で、物語の名場面を浮世絵にするのが流行しました。

この作品では、琴や横笛、琵琶などの楽器を演奏する姿が描かれています。春の夜に「梅見の宴」のひと時を優雅に楽しんでいる様子がうかがわれます。

 

「雪月花 近江 石山秋の月 紫式部」楊洲周延

解説

 幕末から明治にかけて活躍した絵師・楊洲周延の「雪月花」シリーズは、それぞれの画題が雪は雪の結晶、月は丸、花は桜の枠の中に記されています。

この作品は平安時代に紫式部が石山寺へ参詣し、滞在中に中秋の名月を見て『源氏物語』を思いついたという伝説の場面で、石山寺から月を眺めている美しい立ち姿の紫式部を描いています。

長く黒い髪に真っ白な顔。おでこには太い眉が描かれ、小さく赤い唇は、まさに平安時代の美人の姿そのものです。赤い袴はひざ下が長く中宮晃子に仕えた文才のある女官としての気品も感じられます。

 

「若紫源氏絵合 漂澪」三代歌川豊国

解説

 この作品には、画面に金粉や金箔を散らしたような「砂子摺(すなごずり)」という技法が用いられ、細かい彫りと摺りが合わさった豪華な造りとなっています。

右上には、和歌が詠まれた二枚貝が描かれていますが、貝を用いた風流な遊びと和歌が結びついて上の句と下の句を組み合わせる「歌かるた」となったとされています。

貝を使った「貝合せ」や「貝覆い」という遊びは、二枚貝の貝殻を二つに分け、片方は全部伏せて並べ、他方を1つずつ取り出し、貝殻の外側の色や文様によって一枚の貝を引き当てるというものです。

江戸時代には、二枚貝は同一のものしか合わないことから、和合と貞節の象徴として貝覆いの調度品は、重要な嫁入り道具となりました。大名の息女の婚礼には、『源氏物語』などの場面を内側に美しく描いた貝を入れた、金蒔絵が施された豪華な貝桶が用意されました。

※広報はだの令和6年1月1日号掲載

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所属課室:文化スポーツ部 文化振興課 文化振興担当
電話番号:0463-86-6309

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