昔話と伝説
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日本武尊の足跡
草なぎの難を逃れた日本武尊は「えぞ」征伐に東へ東へと進んで行きました。いよいよ目指す相模の国の阿夫利山(大山)に兵を進められたのです。
しかし、もう少しのところで、兵士達は、いきも絶え絶えに疲れ果ててしまったのです。それもそのはず、この辺りには一滴の水もありません。のどはひりひりと焼きつき、水欲しさに気も狂わんばかりです。
その姿を見た日本武尊は、「水無きを憂う。」と、申され、そばにあった大きな石を力強く踏みつけられました。すると、どうでしょう。大きな石の下からこんこんと清水が湧き出したのです。それを見た兵士達は、大喜びでのどを潤し、元気を取り戻したのです。
そして、この水はどんなに日照りが続いても水が枯れたことがなく、村人達の飲み水として使われてきました。村人達は、水のお礼と日本武尊の恩を忘れないため、石碑を建てて徳を伝えてきたそうです。
ところが、明応7年(1498)に大地震が襲い、こんなに村人達につくしていた清水も地震には勝てなかったのでしょう。一瞬にして埋まってしまったのだそうです。不思議にも片足の足跡だけは、地表に残されたのです。大きくあいた足跡は、今でも菩提の山の中に残っていて、いつもいつも、水が溜っているそうです。
弘法様(弘法大師)と弘法山
弘法様がまだ名も知られない旅の僧であったころ、秦野の山野に行き暮れて、百姓仁左衛門の家に一晩の宿を頼みました。そうしたところ、仁左衛門夫婦は快く迎えてくれました。
ある日、弘法様から近くの山で修業をするということを聞いた仁左衛門は村人たちの助けを借りて山の上に小屋をつくりました。その小屋で弘法様は、しばらくの間、修業をしました。
あるとき、弘法様の予言が当たり村に火事が起こったので、村人は弘法様が火をつけたと思い、追い出そうとしました。しかし、その夜、弘法様が村人にいった通り嵐になり、何件かの家が川に流されたり、風に吹き飛ばされたりしました。それからは、村人たちは弘法様のいうことを信じるとともに尊敬するようになりました。弘法様が去った後、人々は小屋のあった山を「弘法山」と呼ぶようになったということです。
また、弘法山には「乳の井戸」と呼ばれる井戸があります。
この井戸からは白く濁り、乳の香りを漂わせた水が湧き出ていたそうです。赤ちゃんを持つ母親がこの水を飲むと、乳の出がよくなると伝えられていました。
弘法様と弘法の清水(臼井戸)
昔、修業のため全国を歩いていた弘法様が、ある農家に立ち寄り、一杯の水をたのみました。しかし、その農家では、あいにく水をきらしていてありませんでした。
この付近には井戸も水もないので、娘さんが「しばらく待っていて下さい。」といって、遠くまで水をくみに行きました。弘法様が待ちわびていると、娘さんが水の入った手おけを重そうに下げてやってきて、ひしゃくに水を入れ差し出すと、弘法様はおいしそうに水を飲みました。
そのあと、この村が水に困っていることを娘さんから聞いた弘法様は、庭の真ん中に行って杖をつき立てました。そこを娘さんが鍬で掘ると、不思議にも清水がこんこんと湧き出しました。
そこで、この清水は「弘法の清水」(臼井戸)と呼ばれるようになりました。
平将門伝説
今から千年以上も前、平将門が関東の大部分を征服している時、秦野に来て地形が京都によく似ているので大変気に入り、元町の龍門寺辺りに館を構えたといわれています。そこで、館のあったところを「御門」といい、付近には京都にある祇園、加茂、河原町などの地名が残っています。
将門は秦野に都を築こうとしましたが、夢の中に一匹の白ギツネが現れ「秦野は地域も狭く、地形も不利であるからやめよ。」と告げました。気になって調べると、近くに小さなお宮がありました。将門はそのお宮に何度もお参りし秦野の地をあとにしたということです。
村人達はそのお宮があった地名から「鴨居稲荷」と呼んだといわれています。
以前はたばこ工場の敷地内にありましたが、戦後、妙法寺の境内に移されました。
秦野市内には、ここに紹介した以外にも、昔話や源氏にまつわる頼朝伝説などがたくさんあります。
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