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食生活

問い合わせ番号:10010-0000-4154 登録日:2012年2月15日

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 食料

ヤキビン

今のように、米のご飯をいつも主食として食べるようになったのは、昭和20年代後半以降でした。それまでは、そば・うどん・サトイモを主食としていて、サトイモは、塩ゆでにし、それを焼いて食べていました。

おやつは、サツマイモをふかしたものなど手作りの物を食べ、祭などの特別の日には、「ヤキビン」といって、小麦粉を練ってあんこを入れた物を食べた所もあります。

野菜類は、農家は自分の家で作った物を食べていました。

魚類やワカメ・コンブなど小田原の前羽や八幡、平塚の須賀という所から、魚屋さんが週に1回ぐらい売りに来たので、買っていました。

また、雑貨・日用品は、行商人や店から買っていましたが、多くの人は酒は特別の時しか飲みませんでした。砂糖も甘味に使ったのは、終戦後ずっと過ぎてからで、その前は、カキの皮やスイカの皮などで甘味をつけたこともありました。肉類は、昭和30年代まではめったに食べられませんでした。油は自分の家で菜種を作って、油屋さん(愛甲屋・関松・瓜本)などへ持っていって、油にしてもらっていました。だしは鰹節と削り節を使っていましたが、鰹節は高価だったので、ほんとんどイワシの干したものを削った削り節を使っていました。削り節屋さんといって、干したイワシを削ってくれる店がありました。味噌・醤油は、農家ではほとんど30年ぐらい前まで、自分の家で作っていました。味噌は麦麹に大豆の煮たものを混ぜて作り、「3年味噌ねかせ」といって、3年ぐらいたってから食べました。暮れになると、どこの家でも味噌作りをする光景が見られました。醤油は原料の小麦を炒って、麹を作り、大豆を蒸し、「醤油屋さん」をよんで作ってもらいました。「醤油絞り」といって、醤油を絞る人が家々を回っていました。

また、日常の保存食として重要なものに漬物があり、12月にたくわんを漬けました。味噌を仕込んだ時に、ゴボウ・ニンジン・ナス・キュウリなどの野菜もいっしょに味噌樽の中へ漬け込みました。ハクサイなどがとれた時も、少し干して大きな樽に漬けたりもしました。ほとんど、どこの家でも、昔は自分の家で漬けたものを食べていました。

そのほか、家の近くの川で、アユ・ドジョウ・ウナギなどを取り、料理して食べました。

 飲み水

秦野は山に囲まれ、地下水に恵まれた所もあり、今の水道ができるまでは、豊富で質の良い湧き水が飲み水に用いられていました。

しかし、地区によっては、川の水を利用する所や湧き水があまりなく、井戸を掘って水を得る所もありましたが、地下水が深いので井戸を掘るのに大変で、中には、いくら掘っても水の出ない所もありました。そこで、井戸のある家は、ない家に水をあげたり、年に1度、近所の井戸を利用している人達で、水をかい出してきれいにしたりしました。

また、戦後には簡易水道といって、その村の人々で水道の組合を作って、水源から水道を引いて、各家々へ水を送ったりしていました。水がきちんと流れているかどうか、毎日、村の人がかわるがわる見に行ったり、工事なども全部村の人々で行っていました。

どこの家でも水がなくなるとそれこそ大変なので、水をかめにためておき、1回野菜洗いなど台所で使った水も捨てることなく、米をといだ水も木などの根にかけたり、家畜にあげたりして、とても大切に使っていました。

水をくみに行くのは、女の人の仕事とされることが多く、朝早く起きて、天瓶に水くみ桶をつけてかつぎ、くみにいきました。風呂に水を入れるには、おけで7~8回も往復しなければならず、とても重労働でした。そのため、風呂の水も沸かし直して、毎日水は取り替えませんでした。また、もらい風呂といって、風呂を焚いた家へ、みんなが入りに行ったりしました。

 水と戦った村人

南平橋建設記念碑

下大槻では、金目川の水で、その昔、大変な苦労が何回かあったそうです。田には水が欲しいし、また、そのためには、川を整備しなくてはいけないこともあったようです。

金目川は大雨のたびに氾濫を繰り返し、下大槻ではたびたび被害にあいました。南平橋も今のようなコンクリートの橋になる前は、木の橋でした。そのため、橋が流されてしまうことも何度かありました。大雨になると、地区の男の人たちが総出で土のうをつみました。これは、天災のおそろしさと、地域の団結の大切さを教えてくれるものでした。

かつては、1年に1度や2度はくる大水との戦いでしたが、近頃では護岸工事で川がきれいに整備され、このような村をあげての作業もなくなってきました。

乳牛水神

また、先人が苦労して築いた水もあります。

本町地区に(水神町)「滝の前」という地名が、昔ありました。その名の通り、今から40年ほど前までは、高さは3メートルそこそこですが、滝の水はとうとうと音を立てて落ちていました。今は水道ができて、その滝も必要なくなってしまいましたが、その滝は、昔の人々が作った人工のものでした。

この本町の乳牛地区の人々は、水を求めていろいろ苦労しました。

曽屋神社のとなりにお不動様があり、その西側の杉木立の中心に水がこんこんと湧き出ていました。それで、村の人はそこを「水神さん」と呼んでいました。でも、そこは低い所にあるので、村人は十分利用することができず、毎日朝早く起きて、1日の水を運んだのだそうです。

もし、「この水神さんの水が家に流れて来たら、どんなに幸せだろう。」と考え、トンネルを掘ることに決まりました。しかし、昔、昔のことです。今のように機械があるわけではありません。何日か何か月かかかって、やっと大人の人がすわって仕事をするぐらいの水が流れたのです。今から、300年ぐらい前の江戸の元禄年代のことです。

曽屋用水

それより少しあと、江戸時代末期に完成した用水に、曽屋用水があります。

曽屋用水は、曽屋村の人々の努力の結晶でした。ところが、人々はその用水の水を飲むだけでなく、食べ物や食器も洗っていたため、人口の増加と共に水が汚れて困ってしまいました。また、上地区の三廻部には、三廻部用水があります。

三廻部用水

三廻部は、土地の高さが約200メートルの所にあるので、井戸を掘るのも大変でした。そのため、村の人々は飲み水や農業用水に困ったそうです。そこで、村人達は協力して三廻部用水を作ったといわれています。

この用水は大変古く、立派なもので、今でもたくさんの水田を潤しています。

江戸時代の初めにこの用水を延長して新しい水田を開き、その後もこの用水を大切にしてきました。

このほかにも、南地区の今泉用水・北地区・東地区などにも、いくつかあります。いずれも昔の人々が苦労して築いたものです。

このページに関する問い合わせ先

所属課室:文化スポーツ部 生涯学習課 文化財・市史担当
電話番号:0463-87-9581

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